平成25年1月14日 練習会

内地に雪を降らせたバクダン低気圧の影響で、

母島も大荒れです。

 

始めのうちHだ氏と政治師匠と私だけだったので、

なんとなく師匠昔話に入りました。

浜の玉砂利を道路につき固めた。

という話。

師匠の子供のころ、村の中のメイン道路は

浜の玉石を道路に突き固め、

それはもうハダシでも駆け回れるようにキレイじゃった。

道路が傷むと、

村の青年団が「たこ」という道具で整備してまわったとさ。

「ロース石の石畳があったそうですね」

と聞くと、

蝙蝠谷の「謎の公園」(私はそう呼んでる)前の坂に、

そのロース石の石畳があったそうです。

 

島には石屋さんが2軒あって、

ロース石を切り出したりしてたそうです。

それと、硬い自然石を手彫りで石臼なんか作っちゃうんだから

昔の人ってすごいよね。

 

当然川の側面は石積みで、石のスキマにはウナギがいて、

小エビなんかは網で採って佃煮にしていたそうですよ。

テナガエビは釣って楽しんだんだって。ウラヤマシ

石門山にあったデッカイ桑の切株で宴会をやった人たちがいたとか。

桑の切株の端を削り取って、磨いて磨いて置物を作ったとか。

南洋踊りはもっと荒々しい踊りだったとか。

 

故朝蔵さんとは仲良しでどこへでも一緒に行ったそうです。

どこの浜も、どこの山も行ったそうです。

 

そして、

戦争中に母島にいた兵隊さんの中には特務機関の人がいた。

舟木山の見張所にはその人たちがいて無線の傍受などをしていた。

B29と思われる飛行機の編隊が遠くを通過するのを目撃した。

いつもと爆音が違い低い音だった。

東京の空爆に向かったものだったのではないか。

それらの無線も、敗戦を告げる玉音放送も、

特務機関の人たちは詳しく知っていたみたいだ。

特務機関とはあの陸軍中野学校である

戦争中は、死も生も感じなかったそうです。

アメリカ軍が来て、内地に送還されるときに、

はじめて死の恐怖を感じたそうです。

 

今は平和でよかったね。

という話。